人目を気にする。
先日、会社の会議で、人前で30秒ほど話す機会があった。
ただの一言コメント程度の発表ではあったが、妙にカッコつけたことを口走ってしまい、そのあとものすごく恥ずかしい思いがした。
そして、その日はそれをしばらく引きずっていた。
かっこつけたことを言って、あの人にどう思われるだろうとか、 ださかったなーとか。
そんなことを考えて、穴があったら入りたい気持ちになっていた。
しかし、色々考えているうちに、その悩みはすっと消えて行った。
さて、「人目を気にする」って、一体どういうことだろうか。
なぜ、人は人目を気にするのだろうか。
そして、人目を気にすることに対して、どうやって向き合っていけばいいのだろうか。
その日の些細な会議での発言を通して、そんなことを考えたので、共有してみる。
人目を気にする構造
人目を気にする一番の原因は、ずばり、
「その人の目を生み出しているのも、他ならぬ自分だから」
である。
僕たちが気にする人の目とは、自分たちが勝手に想像した人の目。
周りの人がこう思っているであろう、という自分の想像が作っている人の目。
自分の想像している人の目である。
そして、その人の目が、「自分のことを〇〇って思っているのではないか」、という想像自体も、自分自身が勝手に作っているものなのだ。
人の目を気にしなくなったワケ
当然、今でも人の目は気になる。
人と比べても、特に人の目を気にして生きてきたと思う。
学校の中では優等生の部類にいたし、真面目なやつだったので、それがアダとなって、変な行動は取れなかった。
優等生でいよう、真面目でいよう、という圧力を自分で勝手に生み出していて、それに苦しめられていた。
さて、最初の話に戻る。
その会議で僕が発言した内容について、2、3日経った今、そもそも覚えている人はいるだろうか?
自分と同じくらい、その発言について考え、悩んで、もっとああ言えばよかった、と思っている人はいるだろうか?
いるわけがない。
そんな暇人はいない。
もはや、自分でも何を言ったのか、あんまり覚えていない。笑
もっと踏み込んで考えてみる。
たとえその発言を僕がしたことによって、
周りから「あいつは生意気なことをいうやつだ」と思われていたとしよう。
だから、なんなんだろうか。
そう思った人が、何か噂するかもしれない。
あなたのことを、他で悪く思うかもしれない。
だったら、それをどうやって確かめる?
それを実際に人に話している現場を見ればそう思えるだろうが、そんな場面にはなかなか遭遇しない。
その人がどれくらいあなたの発言について考えているかなんて、その人に聞かないとわからない。
そう、究極的には、決して分かり得ないのだ。
ものすごく気にしているかもしれないし、全く気にしてないかもしれない。
わからない。
それが極端な発言だったら、また話は変わってくる。
周りに嫌われるような発言で、それによって自分のことを嫌いになっているのが明白な発言なら、それはきっとそうだろう。
しかし、その場合はそれが「狙い」なのであって、そう思われているかどうか、なんて最初から気にしてはいない。
今ここで話題にしてるのは、
「その意図がなかったが、後から考えると相手に変に思われてしまったのではないか?」
という、ある種の被害妄想を生み出す発言のことだ。
話を元に戻す。
わからないことについて、あれこれ悩むことほどナンセンスなことはない。
悩んだ先に答えはないのだから。
その会議で他の人がどんな発言をしたかなんては、思い出そうと思わなければ思い出せない。
自分の人生にとっての重要性は、ほとんどない。
人の、他人への興味なんて、結局そんな程度なのだ。
人の目を気にすることほど、不毛なことはない
人は、自分が思っているほど、自分には関心がない。
恋人だったり、とても近しい人なら別だが、
かくいう自分だって、他人にはそんなに興味がないだろう。
そして、たとえ周りの人が何かを思っていたとして、
それが自分の人生に何か重大なことになるケースは、稀である。
わからないことについてあれこれ悩む時間があったら、自分がどうにかできることについて悩もう。
最後に一つ、名言を。
神よ、我らに与えたまえ。
変えることのできないものを受け入れる平静さを。
変えるべきものを変えるだけの勇気を。
そして、変えられることと変えられないことを見分ける知恵を。
ーーーラインホルド・ニーバー(アメリカの神学者)
人の目が気になった時には、この言葉を思い出すようにしよう。