だまん氏のブログ

元不動産屋→現・外資コンサル。人生の先生は本と映画。面白かった本や映画、仕事について、など日々思ったことを好き勝手に書いていきます。

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【映画評】『桐島、部活やめるってよ』学校ヒエラルキーをグロテスクなまでに生々しくあぶり出す

映画は好きだが、2回以上観ようと思う映画とはなかなか出会わない。

そんな中で、4回も観てしまった映画がある。

それがこちら。

『桐島、部活やめるってよ』

桐島、部活やめるってよ

桐島、部活やめるってよ

 

 

公開当初、ネット上でかなり話題になっており、気になって観にいってみた。

場所は、早稲田松竹。

いわゆる名画座というところで、映画を2本立てで1300円とかでみれる。

ここの劇場の映画のチョイスが絶妙で、学生の頃はよく通っていた。

『桐島』と同時上映だったのが、

韓国の青春映画、『サニー 永遠の仲間たち』

サニー 永遠の仲間たち (字幕版)

サニー 永遠の仲間たち (字幕版)

 

 ちょうど日本でもこれからリメイク作品が作られているところ。

主演は広瀬すずと篠原涼子。

 

目的の映画ではなかったので、軽い気持ちで観ていたが、

ところがどっこい。

笑いあり、涙あり、本当に泣ける名作だった。

こういう予期せぬ出会いがあるので、名画座は面白い。

『サニー 永遠の仲間たち』については、また別の機会で記事にしようと思う。

 

 

さて、本題の『桐島、部活やめるってよ』について。

最初観たときは、全く意味がわからなかった。

なんとなく、学校のヒエラルキーで下にいるオタク系の映画部たちが、

ヒエラルキーの上の人たちに歯向かって行く。

そんな甘酸っぱい青春映画か、くらいしかわからなかった。

だけど、なんだか不思議な世界観で、

観終わった後に、一体どういうことなんだろうかと、色々考えさせられた。

 

考えてもわからなかった結果、

映画評論家の町山智浩さんの解説はじめ、いろんな人が書いている評論を読み、

よーやく、いろんなことが合点がいった。

 

そこで、もう一度観てみた。

今度は、観ていて胸が苦しくなった。

学生時代の自分を思い出し、胸の中がえぐられるような感覚に陥った。

 

 

この映画の最大のポイントは、

“タイトルの桐島君が、一度も映画に登場しないこと”

(一瞬それっぽい人とすれ違うが、それだけ。特別な役はない)

 

 最初はなんだそれと思ったが、これが最大のポイント。

タイトルの桐島くん。

バレー部のエースで、勉強もできて、かっこよく、

おまけにモデルみたいなかわいい彼女がいる。

申し分なく、学校ヒエラルキーの頂点にいる人物だ。

 

そんな桐島くんが、ある日突然部活をやめる。

そして、学校にも来なくなる。

バレー部のマネージャーがすすり泣いているところから、映画は始まる。

 

「桐島、部活辞めたらしいよ!」

たかだが部活をやめただけのことだが、学校中で大騒ぎになる。

 

「そんなに慌てふためくことか?」と思っていた。

しかし、桐島が部活をやめるということは、

桐島=ヒエラルキーの頂点にいる=部活のエースである

という方程式が、崩れることになる。

 

部活を辞めたことそのものについて、慌てているのではない。

桐島が部活をやめることによって、

“ヒエラルキーの頂点でなくなってしまう”ことに、慌てふためいているのだ。

 

それはそんなに大ごとなのだろうか。

 

大ごとなのだ。

 

なぜか?

 

桐島が部活を辞めて、おまけに学校にもきてない。

そのことに慌てふためいていたのは、桐島の彼女含め、桐島と近しいと思われる人々。

彼ら、彼女らは、桐島と一緒にいることで、

ヒエラルキーのトップにいることできた。

 

ある意味、桐島という存在は、

自分たちをヒエラルキーの頂点近くに保っておくための証だった。

もっというと、そのための証でしかなかったのだ。

 

その証が崩れることは、

自分の立ち位置が危うくなること。

これまで桐島という存在がいたことによって守られてきた、

ヒエラルキーのトップという立ち位置が、危うくなる。 

 

彼らが異常に慌てふためき、取り乱すのは、

友達のことを心配してではない。

その証拠に、彼らが仲よさそうにしているシーンは少ない。

彼らが動揺しているのは、

自分たちの存在を支えていた拠り所がなくなってしまうからだ。 

 このままだと、ヒエラルキーのトップの座から転げ落ちてしまう、

ということを心配しているのだ。

 

 

その一方で、桐島が部活を辞めようが、学校に来なくなろうが、

何も生活が変わらない人たちもいる。

そう、もう一つの主人公、映画部の面々だ。 

 

彼らは変わらず部室にこもり、好きな映画について語っている。

周りからどう思われようが、

(周りから冷たい目で見られていることに多少の後ろめたさを感じつつも)

自分たちのやりたいことに、ピュアに向き合っている。

彼らの拠り所は、彼らの中にあるのだ。

 

その両者の対比を描きながら、物語は進んでいく。

 

クライマックスでは、桐島の取り巻きVS映画部、の戦いがあるが、

戦い終わって、どちらの生き方が良いのだ、という明確な答えはない。

 

 

桐島の取り巻きで、映画部の面々の存在に興味を示す元・野球部の少年がいる。

彼はイケメンでかっこよく、桐島と近しい存在だったのは窺えるが、

どうやら同じく、部活をやめているようだ。

 

最後の桐島の取り巻きVS映画部の戦いの後、彼は泣いてしまう。

自分のヒエラルキーを守ることしかして来なかった彼は、

自分のやりたいことに向かって進んでいる映画部を見て、

自分は空っぽであることに気づく。

自分に情けなくなって、泣いてしまう。

 

 

そして、最後のシーン。

元・野球部の彼は、グラウンドで行われている野球の練習を見ている。

本当にやりたかった野球と再び向き合うのか、と思いきや、

携帯に手が伸び、桐島に発信をかける。

発信音だけが鳴り響く中、映画は幕を閉じる。

 

彼は、再び桐島にすがってしまうのだろうか。

それとも、携帯を切り、自分を拠り所として歩んでいくのだろうか。

答えは出ないまま、映画は終わる。

 

 

 

観ていて、何が辛かったか。

まさに、中学生・高校生時代の自分を映し出しているようだったからだ。

学校という狭い世界の中で、ヒエラルキーの上にいたかった。

大して仲良くもないのに、彼らと同じグループにいるフリをして、

自分を繕っていた。

本当は、映画部のような友達の中に、

素直に話せる友達がいたのに。

 

なんて狭い世界で、何を気にして生きていたのだろうか。

ヒエラルキーを守るために、なんてつまらないことを自分は気にして生きていたのだろうか。

そんなことがリアルに描かれており、

学生時代の自分を思い起こし、本当に胸をえぐられる思いだった。

 

 

 この映画には、答えはない。

答えはないが、一生、誰かを拠り所にして生きていくことはできない。

周りにどうみられようが、

自分は自分の生きたい人生を生きる。

所詮は、狭い世界。

そこでの小さな競争なんて、振り返ってみればなんてことはない。

 

学生時代の自分がそうだったからこそ、

そして、この映画でそれを痛感させられたからこそ、

自分の生きたい人生を生きようと、改めて強く誓う。

 

学生時代に、学校という小さなヒエラルキーの中で苦しんだ人は、ぜひ。

こういう生き方もあったかもしれない、と反省をし、

これからの生き方を、改めて決意できる映画です。

 

桐島、部活やめるってよ

桐島、部活やめるってよ