湊かなえさんの『母性』を読んだ。
母性って、なんだろうか。無償の愛って、なんだろうか。
親になると、当たり前に芽生えるものだと思っていた。
そんなことは、決してない。
この小説は、親になりきれなかった母親と、母親の愛を求め続けた娘の悲しい物語。
物語は、4階から転落した女子高校生についての新聞記事から始まる。
警察は、彼女の転落が事故なのか、あるいは自殺なのか、詳しく調べているという。
記事の中で母親は、こう語っている。
愛能う(あたう)限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて信じられません
物語は、メインとなる親子二人の語り手と、上記の新聞記事を巡る高校教師の描写、という三つの観点から進行する。
ルミ子の手記
語り手の一人は、母親であるルミ子。
彼女の語りは、神父に懺悔する手記という形式になっている。
彼女の娘が自殺を図り、それに対する長い懺悔だ。
ルミ子の母親は、無償の愛を与えてくれる母親だった。
ルミ子にとっては、自分の母親が全て。
何をするにも、「どうすれば母親が喜ぶのか?」を基準に考える。
日々やることだけでなく、結婚相手でさえも。
そんなことを母親は求めていないはずなのに、母親の想いに応えようとする姿がありありと描かれている。
そんな彼女は、自分が母親にやってきたのと同じことを、自分の娘にも期待する。
つまり、「娘は、母である自分が喜ばすように、物事を考え、選択するだろう」と。
ここに、大きな乖離がある。
ルミ子の母の、何の見返りも求めない無償の愛。
それに対して、ルミ子自身が、母に勝手に見返りを求めていた。
自分のことを褒めてくれる、という見返りを。
見返りを求める行為は、その時点で無償の愛ではない。
ルミ子は、同じことを娘に求めた。
「自分は母親を喜ばすためにやってきたのに、なんでこの娘はそれができないのだろうか?」と。
ここの歪みが、物語の主軸。
全てが母親基準のルミ子は、自分の母が亡くなった時に、娘に対してこんなことを思う。
私には母親がいないのに、この子にはいる。
お母さん、と呼べば返事をしてくれる人がいる。・・・どうしてこの子にはいて、私にはいないのだろう。
どうしてこの子は母を亡くした私の気持ちなどおかまいなしに、当たり前のような顔をして、甘えてくるのだろう。
清佳の回想
ルミ子の娘、清佳(さやか)の語りは、回想となっている。
彼女は、どうやら身体を動かせない状態になっている。
亡くなっているか、あるいは意識不明の状態にあるのか。
小さい時の彼女は、「どうしたら相手に喜んでもらえるか、いつも考えなさい」と母親に教えられる。
たとえば、ルミ子の母に会う時。
どうしたらおばあちゃんが喜んでくれるかをよく考えて、それを伝えなさいね、と。
一生懸命考える清佳。
しかし、いざ祖母と対面すると、先に母が口を出してしまう。
寒くなったけど、おばあちゃん、お風邪をひいてないかって心配していたのよね。
あと、お庭のバラがきれいに咲いたから、おばあちゃんに見に来て欲しいのよね。
子供ながらに、母はこのようなことを言って欲しいのだと、彼女は理解した。
おばあちゃんに伝えていたのは、自分の言葉ではない。
母が望む言葉だった。
彼女は、母親から、無償の愛を受けていたと感じたことはない。
唯一、それを与えてくれていたのは祖母だった。
自分の母親に愛されたいと願う彼女は、母親が求めている自分になろうとする。
しかし、そうはいっても子供にだって個性はある。
彼女の取った行動によって母親が悲しそうな顔をすると、それをしないようにする。
母の愛を受けたいがために、だんだんと自分を殺していくことになる。
一つの事故をきっかけに、狂い始める歯車
ルミ子と旦那と、そして清佳。
相容れない愛情のすれ違いがありながらも、最初はそれなりに幸せな暮らしをしていた。
しかし、ある事故をきっかけでバラバラになってしまう。
自然災害によって、ルミ子の母が亡くなってしまう。
その事故の当日。
同じ部屋で寝ていたルミ子の母と清佳だったが、台風によって棚が落ちて来てしまい、二人は身動きが取れなくなる。
そこに、二次災害で火事が起きる。
隣の部屋にいて、事態に気づいたルミ子。
二人の寝室に入ると、下敷きになっている二人を見つける。
火の手が迫っており、二人を助けている時間がない。
その時、当然のように母親を助け出そうとするルミ子。
しかし、母は、娘を助けろという。
あなたの愛を今度はあの子に、愛能う限り、大切に育ててあげて
そう言い残して、彼女は自分の舌を噛み切って自殺する。
清佳を助け出したルミ子だったが、母を亡くした彼女は、大きな生きがいを失う。
しかし、彼女はこう思う。
私が娘を大切に育てたのは、それが母の最後の願いだったからです。
母に応えたい思い。
その想いから、娘を育て上げた。
そこには、娘への無償の愛など、入り込むスキはなかった。
清佳の自殺へ
自分たちの住まいが燃えてしまった一家は、旦那の実家で同居することになる。
そこには、絵に描いたようないじわるな姑がいた。
元来正義感の強い清佳は、自分の母がいじめられているのを見て、最初は反抗していた。
しかし、その結果ますます母への風当たりが強くなることを知り、大人しくなる。
そこでの生活の中で、ある日清佳は真実を知ってしまう。
自分の祖母が亡くなったのは、自分自身を生き残すため、自ら舌を噛み切って命を絶ったからだと。
それは、清佳には秘密にされていたことだった。
母にとって一番大切な存在であった、祖母。
それを失った原因が、自分にあった。
いっそ、母親に愛されない自分は、あの時死んでいたほうがましだった。
彼女は、その罪悪感から、自殺を図る。
「ママ、赦してくださいーーーー」という遺書を残して・・・
高校教師の正体とは・・?
冒頭の新聞記事の中での、母親の言葉に違和感を感じていた高校教師は、隣の同僚を誘って、飲みに行く。
そこで自分の思いを、こう語る。
例えば、肉じゃがやさばの味噌煮といった手料理を毎日作っている人に、普段子供にどんな物を食べさせていますか?と聞いて、おふくろの味を食べさせています、なんて応えるでしょうか。
多分そういう人は、普通のものですよ、って言い方をするんじゃないかと思うんです。
片や、インスタント食品とか・・・ろくに食べさせていない親に限って、・・・おふくろの味とか、子供のために栄養バランスのとれたメニューを、なんて答え方をするんじゃないでしょうか。
隣で聞いていた国語教師も、それに理解を示す。
後ろめたい思いがあるからこそ、大袈裟な言葉で取り繕っているんじゃないか、ってことだな
なんと、その高校教師は清佳だったのだ。
新聞記事の母親と、自分の母親の姿が重なった。
だからこそ、記事中の母親の言葉にも疑問を持ったのだった。
母性って、なんだろう
母性とは、何だろう。
それは、無償の愛、というものに近いのだろうか。
もしかしたらルミ子も、自分の母親からの愛を、無償の愛と感じることができていたら。
ありのままの自分でも、ちゃんと受け入れてもらえていると感じることができたなら。
娘にも、無償の愛を注げたのだろうか。
『母性』は、愛の形が少し歪んでしまった、悲しい親子の物語だった。
物語にもあるが、女性が全員、もともと母性を持って生まれるのではない。
子供が生まれてから、母性が芽生える人もいる。
もしかしたら、芽生えない人もいる。
愛する側に立つのではなく、いつまでも愛される側にいたいと願うあまり、母性を排除してしまう人もいる。
清佳の自殺は未遂に終わる。
今は結婚をし、まもなく子供も生まれる身だ。
だからこそ、新聞記事の母親の言葉に、より敏感に反応したのかもしれない。
そんな彼女は、自分の子供に対して、こう思う。
わたしは子どもに、わたしが母に望んだことをしてやりたい。愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げるつもりだ。
だけど、「愛能う限り」とは決して口にしない。
この物語を通して、母性について考えるきっかけとなった。
誰しも、最初は誰かの子供で生まれてくる。
子供である以上、誰かの愛を受けて育っていく。
だけど、いつまでも愛を受けてばっかりではいられない。
何処かのタイミングで、愛を与える側に回ることになる。
それが、大人になるっていうことかもしれない。
そうやって、人類はこれまで生き延びてきたのだから。
僕自身も、いつかきっと親になる。
その時に、またこの物語を思い出すような気をする。
そして、改めて、子供に無償の愛を与えようと心に決めるだろう。
自分の娘に対して、溢れるばかりの愛を与えようと決意した清佳のように。